福岡県久留米市にある山の壽酒造(やまのことぶきしゅぞう)は、2017年に片山郁代さんが8代目社長に就任してから、杜氏制の廃止やブランドの大幅リニューアルなど、200年の歴史を塗り替えるような変革に挑んできました。

自らもまた、ひとりの蔵人として酒造りにあたる片山さんですが、幼いころは実家の酒蔵を継ぐつもりはなかったといいます。

そんな片山さんは、なぜ、酒造りの道へと進むことを決心したのでしょうか。また、酒造りの体制を杜氏制から社員制に変更したことで、酒蔵にはどのような変化が生まれたのでしょうか。

世間の「日本酒」のイメージに驚く

1818年創業、看板銘柄「山の壽」を醸造する酒蔵の第二子として生まれた片山郁代さんは、幼いころから「女の子はお嫁に行けばいい」と言われて育ち、家業は長男である弟が継ぐと聞かされていました。

山の壽酒造の母家の外観

山の壽酒造の母家の外観

その状況が変わったのは、大学を卒業してブライダル企業に就職してからのこと。スタッフみんなが積極的に意見を出し合い、成果を上げるために学び合う刺激的な環境にやりがいを感じ、「いままでは親の言うことばかり聞いていたけど、私は自分で考えるタイプの仕事が向いているんだ」と気がついたといいます。

会社は寮生活だったため、遅くまで働いた後に、同僚たちと部屋に集まって食事をすることがありました。家族と暮らしていたころは門限が夜9時だったため、飲み会にほとんど参加したことがなかった片山さんにとって、同世代の人たちとお酒を共にするのは初めての経験です。

そんなとき、同僚の一人が、誰かが持ってきた日本酒を指して、「誰が持ってきたの?こんなの、誰も飲まないよ」と言い放ちました。

「祖父が国税局鑑定官室長を務めていたこともあり、我が家にたくさんの蔵元が集まって宴会が行われるのを見ながら育ちました。日本酒は、私にとっては身近なものだったので、そのときに初めて『日本酒って、若い人にそんなふうに思われているんだ』とショックを受けたんです」

山の壽酒造・8代目社長の片山郁代さん

山の壽酒造・8代目社長の片山郁代さん

父は「山の壽」の蔵元、母の本家は「田中六十五」の白糸酒造と、酒蔵の家系のサラブレッドとも言える片山さんですが、社会人1年目にして、初めて世間の日本酒への認識を理解することになります。

これは同時に、「私は、若い人たちの日本酒へのイメージを変えられる環境に生まれたのかもしれない」という使命感を覚えるきっかけにもなりました。

ブライダル企業でキャリアアップを目指していた片山さんですが、同じころ、焼酎ブームの煽りを受け、実家の酒蔵が経営不振に陥ってしまいます。さらに、跡継ぎとして期待されていた弟に酒蔵を継ぐ意志がないことも判明しました。

もう事業を畳むしかないという空気に包まれた「山の壽」。これを受けて、2006年、片山さんは「それなら、私が跡を継ぐ」と、酒蔵へ戻ることを決意します。

転機となった日本酒ベースのリキュール

「蔵を継ぐ」といって突然戻ってきた片山さんに、家族は大反対。祖母に至っては、「お嫁にまだ行っていない女の子が、わざわざ苦労するようなことをしなくても」と、泣き始める始末だったそうです。

唯一、元・国税局鑑定官室長の祖父が味方になり、日本酒について何も知らない片山さんに、週に一度、酒造りについて知識を身につけるための授業を開いてくれるようになりました。

一方、酒蔵のスタッフたちは、片山さんをなかなか受け入れてくれませんでした。杜氏から「酒造りの現場には入ってほしくない」と言われてしまったため、運営面で携わることになりましたが、業務の改善案や新しい企画を提案しても、「何を言っているかわからない」とあしらわれてしまう始末。

「経営は大変なのに、職場は静かで、みんながのんびり新聞を読んでいるような有様だったんです。活気にあふれていたブライダルの現場とまったく違うので、『もっとこうしよう』と意見を言いたくなるんですが、私には酒造りの経験がないので、強く言える立場でもありませんでした」

和傘

酒蔵のあり方を変えたいと考えた片山さんは、市場調査に乗り出します。

ブライダル企業に勤めていたころ、新規顧客を獲得するために100軒の訪問営業をこなした経験を思い出し、九州の酒販店を100軒回ることに。福岡・大分・佐賀を中心に、量販店や専門酒販店を営業して回りました。

この営業活動の結果、片山さんは、「専門酒販店で売れるような日本酒を造りたい」という想いを抱くようになります。

「量販店では『いくらで仕入れられるか』というお金の話だけになってしまうし、小さな酒屋さんでは、『日本酒』が欲しいだけで、ひとつひとつの銘柄の特徴まで見てくれません。ですが、専門酒販店は、酒蔵の過去・現在・未来の話をしてくれるんです。

専門酒販店に『山の壽』を置いてもらいたいと思いましたが、そのためには全国の酒蔵と戦わなければなりません。普通名詞の『日本酒』を造るのではなく、固有名詞の『山の壽』を造らなければ生き残れないと思いました。

ちょうど焼酎ブームで、日本酒を新たに扱ってくれる酒販店はタイミング的に少なかったと思います。100軒の酒販店を回る中で、とてもおもしろい発想をされる方に出会いました。その方のアイデアのひとつが、日本酒をベースにしたリキュールでした」

そして、片山さんは「日本酒蔵がつくる手造りのリキュール」の開発に着手します。

「私は焼酎に苦手意識があったんですが、焼酎ベースのカクテルを飲んだとき、そのおいしさに驚いて、『苦手じゃなかったんだな』と思ったことがあるんです。同じように、日本酒ベースの飲みやすいリキュールを造ることで、『普通の日本酒も飲んでみたい』と思ってもらうきっかけをつくりたいと考えました」

ところが、正統派の酒造りしか経験がない蔵人たちにこのアイデア理解してもらうのは、難しいことでした。

そこで片山さんは社外のチームで、マンゴーとパッションフルーツを使った「フルフルーティ ダブルマンゴー梅酒」を開発・製造することにしました。

山の壽酒造「フルフルーティ ダブルマンゴー梅酒」

山の壽酒造「フルフルーティ ダブルマンゴー梅酒」

この商品を、取引先の酒販店が楽天市場で販売したところ、梅酒ランキングで1位を獲得します。一躍、ヒット商品となり、飛ぶように注文が相次いだことで、世間の人の「山の壽」を見る目、そして、蔵人たちの片山さんを見る目が変わりました。

「お客様に喜んでいただける商品を生み出せたことは自分たちの自信につながりました。しかし、会社としてさらに成長しなければ、この状況を維持していくことは難しいとも思っていました」

人気商品の「ダブルマンゴー梅酒」を生産する努力はしつつも、「一過性のブームに留まらない商品を造らなければならない」と冷静に受け止めていた片山さん。専門酒販店に置いてもらうような質の高い日本酒を造るために、次なる策を考え始めます。

社員一丸となって学びながら酒造りをする体制に

先代蔵元である父と同世代のスタッフが定年退職を迎えていったタイミングで、それまでの「山口合名会社」から「山の壽酒造株式会社」と社名を変更し、その後、勤めていた杜氏が辞職することになりました。

着実に販売実績を積み上げていた片山さんにとって、いよいよ新しい体制を構築するタイミングが訪れたのです。

「それまで日本酒を造ったことがなかったので、現場のことを把握できていなかった」と話す片山さんは、新しい杜氏を探す前に、蔵人全員にヒアリングを実施。そこで蔵人たちから出てきたのは、「不安」という言葉でした。

「みんな、杜氏から言われたことはできるけど、『なぜ、それをするのか?』を答えられる人がいなかったんです」

山の壽酒造で働く方々

山の壽酒造で働く方々

福岡県の地方の酒蔵ということもあって、集まっているのは未経験者ばかり。杜氏の指示通りに動くことはできるけど、『なぜ、ここで水を入れるのか』『なぜ、ここで温度を変えるのか』『なぜ、この種麹を使うのか』ということが充分に理解できていませんでした。

「せっかく日本酒に興味を持って酒蔵にやってきたのに、もったいない。ひとりひとりが単なる肉体労働者ではなく、知識労働者として、意思を持って酒造りができるほうがいいのではないか?」

そう考えた片山さんは、杜氏ではなく、蔵人たちに酒造りを教えてくれる"指導者"を探すことを決意します。それまでの杜氏制を辞め、社員制による酒造りに切り替えることを宣言。企業としての成長を本気で目指すために株式をすべて買い取り、2017年に8代目に就任し、山の壽株式会社は新たなスタートを切ります。

新たな体制へ生まれ変わった初めの日、片山さんは、蔵人たちにこう語りかけます。

「誰もが知っているサッカー選手や酒造りの名人も、1年生だった瞬間があった。でも、その人たちは、2年目に、2年生になるのではなく、4年生に飛び級するような人たちだった。私は飛び級するから、みんなも一緒に飛び級しよう!」

1年目の指導者には、別の酒蔵で働いていたベテラン杜氏を招聘します。片山さんもまた、蔵人のひとりとなり、ベテラン杜氏の指導のもと、社員で一丸となって学びながら酒造りをする日々が始まりました。

現在の「山の壽」では、片山さんが責任者として音頭をとりつつも、社員がみんなで話し合いながら酒造りを行っています。

山の壽酒造の酒造りの様子

蔵人としてともに働く片山さん

「私が『吸水時間をこれくらいにしよう』と提案すると、別の社員が『目標値を考えると、30秒短くしたほうがいい』と意見を返してくれます。麹の分析担当の社員がそれぞれの成分の値をLINEで送ると、みんなで『ああしよう、こうしよう』と意見を出し合うような体制ができています。

どんなに優れた杜氏がいても、事故に遭ったり、病気になったりしてしまったら、その組織が崩れてしまうのが杜氏制の弱点。山の壽酒造の社員制は、蔵人みんなを成長させることで、持続可能な組織となることを目指したものです」

「山の壽」と良い時間を

片山さんが社長に就任し、組織体制を変えるにあたって、従来とは酒質やデザインが異なる新生「山の壽」が誕生しました。これを受け、片山さんは従来の取引先である全国の酒販店を訪問し、挨拶とともに体制の変更を報告して回ります。

「『取引を継続してほしい』と、ただお願いするのではなく、『新体制で造ったお酒を飲んでいただきたくうかがいました。飲んでみて、可能性があると感じたら取引をお願いします』と話しました。実際に飲んでいただいたところは、すべて取引が続いています」

「変わることが良いか悪いかは、やってみないとわからない」と話す片山さん。しかし、「山の壽」にとって社員制への変化は良い方向へと向かい、蔵人みんなが生き生きと酒造りに取り組むようになったといいます。

山の壽酒造の酒造りの様子

みんなが明るく切磋琢磨し合う環境は、できあがるお酒にも良い結果を与えました。3期目の造りとなる2020年の全国新酒鑑評会で、「山の壽 純米大吟醸 山田錦38」が金賞を受賞したのです。

この結果を受けて、「山の壽」は新たなチャレンジを始めました。新しい醸造方法や、従来の日本酒ではオフフレーバー(望ましくない風味や匂い)だと考えられてきた味わいを持つお酒に挑戦する「チャレンジタンク」の開始です。

「私は茶道を習っていたことがあるのですが、茶道や書道には、『真(しん)・行(ぎょう)・草(そう)』の考え方があります。真は、正統派とされる考え方のことで、日本酒で言うなら研究者の先生方が評価をする全国新酒鑑評会です。

行や草は、それが変化して生まれる新しい価値観。日本酒の場合は、料理の専門家やワインやビールの世界の人々に評価をしてもらうステージです。もちろん、真ができていなければ行や草に進んではいけませんが、全国新酒鑑評会で結果を出せたことで、チャレンジする段階に来られたと考えました」

第2弾「ヤマノコトブキ フリークス2」(写真左)と第3弾「ヤマノコトブキ フリークス1 プラス」

第2弾「ヤマノコトブキ フリークス2」(写真左)と第3弾「ヤマノコトブキフリークス1 泡沫(うたかた)生」(写真右)

その結果として生まれたのが、「ヤマノコトブキ フリークス」シリーズ。第2弾では、日本酒のオフフレーバーとされる成分の中でも、グレープフルーツやマスカットの香りを連想させる「4MMP」という成分を含んでいることが話題となりました。

第3弾では、山の壽酒造が開発した特殊製法「泡沫(うたかた)発酵製法」により発泡感をプラス。醪由来の発酵ガスを通常の生酒の1.5倍残しつつ、前半は生酒のフレッシュ感を、後半はそのお酒由来の香りや味わいを楽しめます。

「泡沫(うたかた)発酵製法」のイメージ画像

「私は、日本酒をカテゴリ分けすると、伝統製法を守る『正統派』、コストパフォーマンスの良い『バランス派』、ペアリングを大切にする『フード派』、無農薬などにこだわる『自然派』、何を飲んでも"あの銘柄だ"とわかるほど個性的な『独創派』に分類しています。

そのなかで山の壽が目指すのは、『独創派』。『ヤマノコトブキフリークス2』は賛否が分かれる商品でしたが、消費者層を広げるために、従来の日本酒の枠に留まらないお酒を造っていきたいと思っています」

新生「山の壽」のテーマは、「Good times with Yamanokotobuki(山の壽と良い時間を)」。おいしいことは大前提として、さらに「おいしいお酒を飲みながら楽しい時間を過ごしてほしい」という想いが込められています。

固定観念や既成概念を壊し、新しいおいしさの発見を導く「ヤマノコトブキフリークス」シリーズのような商品は、「山の壽」のそうしたチャレンジ精神の表れです。

山の壽酒造・8代目社長の片山郁代さん

「今のメンバーは、ひとりひとりが自分の頭で考えて酒造りと向き合ってくれます。常に"みんなで造っている"という手応えがありますね」

片山さんの登場から、着実に変化し、進化してきた山の壽酒造。チームで酒造りにあたるスタイルで、日本酒の世界に新しい風を呼び込みます。

(取材・文:Saki Kimura/編集:SAKETIMES)

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